部屋に蚊がいる。もう10月も半ばなのに。窓から入る夜の空気はまさしく秋のそれなのに、一匹の蚊が僕の部屋に潜んでいる。そして、ちゃんとそいつは僕に時折襲いかかってくる。あの夏の羽音をさせて、神出鬼没、突然襟元に浮かんで出るように現れて、「ややっ!」と追いかける僕を尻目にどこかに消えてゆくのだ。まるで謎の円盤UFOみたいだな、と僕はベッドの上にあぐらをかいて、どうやって退治してやろうかと思案する。じっと現れるのを待っていても仕方がないので、夏の残りの蚊取り線香を探し出してきて火をつけ、野見山暁治画伯の「アトリエ日記」を取り出して読み始めた。
この画伯の書いた「パリ・キュリー病院」を読んだ時の感銘をいまだに忘れない。奥さんを留学先のパリで亡くす実話を書き綴った小説だ。「陽子は世界を失い、世界は陽子を失う。」この一節は僕が「生き死に」について思い巡らす時に、鐘の音のように聞こえて今も新しい。野見山画伯の絵はすごいんだかなんなんだかよくわからないというのが本音だが、彼の書く文章はずっと噛んでいてもいつまでも美味しい不思議な食べ物のようだ。「四百字のデッサン」なんかいいねえ。ずっと持っていたけれど度重なる引っ越しにまぎれてどちらもどっかに消えてしまった。いつの間にか、部屋は蚊取り線香の煙が充満して、眼が痛い。この煙じゃ蚊の野郎(刺してくる蚊は全部雌なんで「野郎」はおかしいんだが)も生きてはいけまい。ザマアミロと思って、ふと足元を見たら、「野郎」もふらふらしながら机の向こうに隠れていくのが見えた。
秋の蚊の消えゆきて寂となりにけり 芝道
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