国際疼痛学会という厳めしい学会に発表しにウィーンまで行って、7日間の学会期中、ウィーンとその周辺をウロチョロしていたことがある。発表のポスターの横に2時間ほど立っていたら、エジプトの内科の女医さんが質問しに来て、何言っているのか全く分からず、向こうもボクの英語が分からないらしく、10分ぐらい疎通のない交流をして微笑み合って別れたのを覚えている。
で、そんなことはどうでもいいので、ある日、ハンガリーとの国境近くにきれいな湖があることを旅行ガイドで見つけたボクは、朝もハヨからバスに乗ってその湖のある町へと行ったのです。暑い夏の日がウィーンの郊外の畑を明るく照らしていたな。
名前も忘れたけれどその町に着くと、みんなゾロゾロ貸し自転車屋さんに行くんだ。で、ボクもついて行って自転車を借りたんだ。ドイツ語でだよ。すごいでしょ。自転車屋の親父の言ってることなんか全く分からんのに、よく借りられたもんだ。向こうも、ナニ言っているかワカラン小さなアジア人にパスポートだけでよく貸したもんだ。
そんで、ボクはなんだか「わしはいつもここで自転車借りてるんだ」みたいな気分になって、みんなについてシャカシャカ行ったのさ。そしたら、なんと彼らはハンガリーに入っていくのですよ。国境と言うより、田舎の踏切のようなバーを抜けたらもうハンガリーだった。とたんに道が砂利に変わったね。で、あとはずんずんハンガリーの森の道をこいでこいで、いわゆる国境の町に着いたわけです。ここで食べた郷土料理のグラーシュというシチュウが美味かった。7日間の学会旅行中、これが一番美味かったね。で、帰ってきた。ただそれだけ。でも、行きは自転車旅行団について行ったから、心細くもなかったけれど、帰りはもと来た道とは言え、ハンガリーの森を一人でこいで帰ったのです。聞こえるのは、砂利を踏むタイヤの音と、ボクの息づかいと、森をわたる風の音だけ。自転車を止めると、高く繁った木々が夏の風にザワッと揺れて、ボクは一気に小さく小さくなったようだった。孤独ともさびしさとも違う、なにかもっと大きな明るい無機質的なものが自転車とボクを囲んでいた。
ほんとになんであんな旅をしたんだろう。行かなくてもいいところに出かけて、心細さに自分を追い込んでいくようなことをボクはなんでしてきたんだろう。それはわからんのです。おそらくずっとわからない。意味のある旅などおそらく無い。自転車にまたがったボクとボクの目の前に高く繁って葉を揺らす木々に、意味などと言う曖昧なものはひとかけらもなかった。1995年のハンガリーの森、くっきりとした思い出です。
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瑠璃 (火曜日, 07 5月 2013 21:58)
僭越ながら…。
言葉の通じない国で、自然に囲まれて、森での感覚は「身の丈を知る」というようなものでしょうか。
そういう感覚を味わいに旅に出るのも良いですね~。
ヒラタミチヒコ (木曜日, 09 5月 2013 21:48)
うーん。そういった、世界との関係に属するような感覚ではなかった気がしますね。そこに木があるように、まったく同じように自分がある、というような感じですかね。でっかい、ボヘミアンの森の木々は本当に高くて、緑深く繁っていて、ざわざわ揺れて、あのまま半時間も動かずにいたら、ボクは分子化して、ハンガリーの森の一部になっていたのじゃないか。いや、おそらく一部はそうなっていたのかも知れませんね。股引の破れをつづり、三里にお灸をすえて、また出かけましょうかね。