金子みすゞ・金澤翔子ーひびきあう詩と書ーを観た。

 僕は書が好きでいろいろ書展を観に行って、同じ愛好家の人達と「ああだこおだ」と言い合うのが楽しい。青山杉雨や今井凌雪の遺作展なんか、なんかもう恐れ入った感じで、数時間見惚れて帰ってきたもんです。反対に少しばかり見る経験を重ねたもんだから、大家と言われる方々の作品でも「なんだかなあ」とがっかりしたりして、そうかと思えば、無名の地方の作家の作品に「うむむ」と惹き付けられたりして、まあ、書を観るのが好きなんです。

 で、この「金子みすゞ・金澤翔子ーひびきあう詩と書ー」は、なんと言いますか、さらりと言えば、ジーンときました。感心したり、恐れ入ったり、惚れ惚れしたりと、いうのとはまるで違う経験です。金澤翔子さんが10歳の時に書いたという般若心経の線の強さというか、なんというか、小細工など微塵もない、書き手の生きていることの運動そのものが書かれた時のままにそこにある気がしました。禅語のひとつだそうで、知らなかったのですが、「両忘」、過去も未来も忘れる、今この時、という意味の言葉の大書を前にした時は大きな団扇でバサリとあおがれたようでした。金子みすゞの詩文を書いた作品群は、まさしく言葉が所を得たように紙の上に際立っていました。「心」「道」とか、一字の大書もこの書家ならではの世界でしたね。「心」なんか「ああ、そうよね。心はそうよね。」と観る者を黙らせます。

 なんだかよくわからないけれど、涙がこぼれそうでしたね。この書家がダウン症であることが「鑑賞」に影響していることは、それはそうなんでしょうが、「書」としての完成度とか、熟達度とか言うものとは別の、「並々ならぬもの」が会場に満ちていました。もう、会場のベンチに座り込んで、じっと目をつぶってましたもんね。そうしていても、何かが迫ってくる、そんな書展でした。