2012年
12月
23日
日
中林梧竹の書展に行ってきました。
書の仲間と一緒に佐賀市、小城市に中林梧竹の書展を観に行ってきました。圧倒された。作品の撮影はできないので、お見せできないけれど、こういう作品群を観ると、昨今の日展をはじめとする書展の痩せぎすさに気づかされますね。そりゃ、オマエ書いてみろ、と言われたら書けはしないわけだが・・・。
音楽でたとえるなら、フルトヴェングラーとかケンペンあたりの録音をバーンと聴かされた感じですかね。へへーっと参っちゃった感がある。すごい人がいたもんです。梧竹といい、副島蒼海といい、佐賀という土地はすごい書人を輩出したところですね。いつか武雄の旅館に泊まったときに、ロビーに普通に置いてある屏風が素晴らしい書でへーっと思ったことがあります。やはり伝統があるのかなあ。
で、梧竹を疲れるほど観て、その後、千美展という姉妹二人による書展を観に行きました。これがまた良かった。お姉さんの方とは僕の出身高校の書道教師を勤められたご縁があるのです。真摯に楽しんで挑戦している作品群で、古い倉庫だったというレンガ造りの会場もまた作品を引き立てて、いい感じの書展でした。オレモカカナキャ、とツヨクツヨク思わされました。ハイ。
写真は作者の中島千香子先生の許可をいただいています。
2012年
12月
22日
土
服を買った。
僕の漢方の師匠はオシャレで社交ダンスのせいかしゃきっと腰が伸びてなかなかの伊達男ですが、そのO先生から「なかなかいいネクタイしとるやないの。」と褒められたことがあります。「そうでしょう。こりゃターンブル・アッサーのタイで・・・」とサラサラッと説明はしなかったが、内心「へへへ。」と喜んだもんです。 「シャドー」(1994年・アメリカ)という映画(チンギス・ハーンが現代に蘇って、世界征服を企むのを、主人公が超能力で阻止するという筋だった。)の中で、チンギス・ハーンが主人公がしているネクタイを「いいネクタイだ。何というのか?」と褒めるシーンがあります。その時ヒーローが答えて「ブルックス・ブラザーズ」と言う。
敵同士ながら、身につけているものを褒めて、褒められて、ニヤッとするいい演技でした。007の前作(前々作?)で、パーティに出る前にタキシードを誂えられたジェームズ・ボンドがあまりにぴったりな着心地にびっくり、嬉しそうにするシーンがある。控えめだが、「オレ、ウレシイ」というのが分かる。服はそれを着ているときに、「コレコレ、ここに僕がいる。」という気分になる、そんな服がいいな。で、僕はやはりブルックス・ブラザーズということになりんした。年末、いい買い物でした。
2012年
12月
13日
木
さよなら、Uさん。
今年は訃報が多く、新年の挨拶遠慮云々のはがきもやたらと舞い込む訳ですが、日田市のバー・ヘネシーのマスターUさんが11月のはじめに亡くなられていた。残念で、寂しいね。何かの本で、人生最後に話したい人間がいるとしたらそれはバーテンダーだ、と言う話を読んだことがある。Uさんの面影を偲ぶと、そうかもしれないね、と思えるな。混んでいるときなんか、僕らが団体で押しかけたときぐらいで、ほとんどカウンターに僕かもう一人くらいが飲んでいるくらいで、騒がしかったことなんか一度もない店だったね。勧められるまままにあれやこれやを飲んでいただけだが、旨そうに飲んでいるのをカウンターの向こうで嬉しそうに眺めていたお顔が今も目に浮かぶ。ニッカウィスキーこそ、という信念で日田市にかってニッカの工場があったと言うのもあろうが、ニッカを語る時には、熱い口調で半分怒ってるように見えたもんです。
確かに「余市」は旨い。このブログで部屋の余市がもうなくなると書いていたら、何十年と会っていない知り合い、いや友人から余市をいただいて、それが今僕の目の前にある。贈ってくれたその人とは20代に一度か二度会っただけなのに、なんという志だろう。荒削りの20代、ウィスキーで言うならまだウィスキーじゃないぐらいのころ出会って、話して、それから一度も会ってない。「橋の下を水が流れて」お互い年月がたった酒のようになったかもしれないね。どこかで会えたなら、しみじみと・・・、いや一瞬で20代に復活するだろな。まぁ、ともあれウィスキーです。沈黙も饒舌も、悔いも喝采もこの液体に溶け込ませてちびちびと夜が更ける。そんな時間の過ごし方を僕はUさんから教えてもらいました、「地球は冬で、寒くて暗い。ぢゃ、さようなら。」とは詩人の詩人への弔辞ですが、「Uさん、ほんとに今年は寒いですよ。また、いずれ、余市を、いやカナディアンの安いやつにしましょうかね?」 再見
2012年
12月
13日
木
ナント年の瀬だ!
12月に入った。それも、今日はもう8日だよ。この間、年賀状を書いた気がホントにする。光陰矢の如し、とか言うまでもないことで、矢どころか鉄砲だな、この速さは。なんだかこんなんで生きる日々が過ぎていくのかと思うと、いわゆるヤルセナサがぐっと迫りますね。
と、言いながらもいろいろ気が多いことには変わりなく、過ぎ行く年月に負けないぐらいに全く落ち着きなく動いていますね。ホントに落ち着きがないね、僕という人間は。落ち着きというものを生まれた時に産室に置き忘れたんだ、きっと。
来年の抱負は「時間を上手に使うこと」。これに尽きるです。もう、忙しいのは解消しない。あきらめた。母親がいつか言ったもんです。「アンタは一生忙しい。」ならばそのバタバタの時間の中で、静謐を得てやろうじゃないの。「忙しい者が最も多くの時間を持つ。」んだそうです。結論ばかり求める風潮に棹さして、ほとんど結論が出ない世界に身体のどこかを浸していたいね。で、最近「ディビザデロ通り」を読んでます。「イギリス人の患者」のマイケル・オンダーチェが書いた、これまた詩のような、話のような、記録のような、現実とそうではない世界とがふれあう隙間のようなところで、誰かが静かに歌っているような小説です。「イギリス人の患者」は映画化されて、その年のアカデミー賞をいくつか穫ったが、忘れがたい映像でしたね。僕はこの映画と「存在の耐えられない軽さ」でジュリエット・ビノシュを知って、以来追っかけです。そう!彼女の出演作でまだ観ていないのがあるんだ!ヤルセナイなど言ってる暇はない!・・・フランス映画の結論のなさも、うんざりだけどね。