2013年
8月
26日
月
「相田みつを展」を観てきました。
福岡の岩田屋という百貨店で「相田みつを展」が開催されて、書友から教えられて出かけてきました。ほんとはボクは相田みつをの書は書として如何なものかいな、という気持ちを持っていたのです。しかし、これは偏見だったね。文言がいい、その文言を書き留めている字が実にいい。ヘタウマのように評されることもある彼の書ですが、どっこい、じっくり前に立って観ていると、深々と練られた世界が静かに横たわる印象です。あまり写真なんかに撮られないけれど、「ひとりになりたい、ひとりはさびしい」という書の線情にはほとんどまともに眼を向けていられないほどの寂寥がありました。
そして、なにより般若心経の写経の小楷には見入ってしまって、こりゃ少々の書き手ではないんだ、と今更ながらに思った次第。まったく、今までボクは傲慢でした。
なんか、こう、すこしうなだれて会場を後にした次第。
2013年
8月
25日
日
第2回「千美展」
中島千香子、中島美紀 お二人の書作家による書展が天神のギャラリーで開かれてまして、前にも書いたとおり、お姉さんの千香子さんがボクの母校の書道教諭であったご縁でご案内いただいて、出かけてきました。
洋画、日本画、彫刻、工芸、書と日展の5部門の内、書が最も難解で人気がないのだとか。そりゃそうだわね。なんて書いてあるのか,ほとんどワカランし、分かったところで、その書がどうして入選しているのか、その芸術的価値がフムフムと分かる人は多くはないでしょうよ。
まあ、確かに読めた方がいいには決まっているけれども、読めなくても、なんだか伝わってくるものはあるのですよ。それは、何を歌っているのかよく分からなくても、洋楽のグループや歌手の歌にしみじみ聴き入ったりすることと似ている。
だけれども、「書」は確かに書き手と観る者との間に通い合うものが、いささか生まれにくい芸術であることも確かだわね。
今度の「千美展」の作品群を観ていると、「書」と言う芸術のそういった宿命というものをほんのり感じさせられました。
昔、「読める書」を運動として展開した高名な書家がおられて、「誰でも読める」と言うことを大事にして、平易な表現を追求されていました。で、ボクの目には、平々凡々たる作品群が並んでいて、「読めりゃいいってもんじゃない。」ということを反対に教えられたもんです。
この辺の話は難しいね。「意味が分かる」ということと「心琴に触れる」ということは全く別なようで、不可分なようで、、、。
30年くらい前にヨー・ヨー・マが雑誌のインタビューに答えていたのをボクは芸術一般の真理を言い当てられたように感じて今でも覚えています。
「音楽とはなんですか?ヨーヨーマさん。」
「人間の表現です。」
言下にそう答えたという稀代のチェリストの芸術に、ボクの余技的な書など比べるのもおこがましいわけだが、でもボクの書はボクの表現です。その点ではいささかも変わらない。未来永劫に聞き継がれる音色と、吹けば飛んでなくなるアマチュアの字との違いはあるけどね。
千美展、伝統的な書ではない、じゃあ、前衛書かと言えばチト違う、まあ、なんでもいいんです。ボクは若い姉妹の書作家が、自分たちの表現を模索して、前進している「気」の波のようなものを感じて帰ってきました。また来年、期待します。
2013年
8月
20日
火
人類の最大の弱点は「愛」だ!を観たぞ。
2013年
8月
06日
火
道草をした。
家路で都市高速に乗ると真正面に夕日があんまり大きくてきれいだったから、「あれが海に落ちるところを見てやろう。」という気にフトなって、途中下車して博多湾の海岸端にまで行ってみた。そしたら、残念。あっという間に夕日のやつは沈んでしまっていて、夕焼け色に輝く空があるばかり。しかし、その空とそれに映える海が絶景でした。西を見やれば福岡タワーやヤフードームが夕景色の中に烟っていて、なんだかちょっとした旅のひとときになりました。人生は寂しいことが多いけれど、美しい景色はやはり美しい。このところの猛暑が二日続きの雨で少し下火になった夕暮れ。夕焼け色の凪いだ海。いいスポット見つけました。次は△♥♧⁂♠でまた来るぜ。